ESSAY

中国3000年の旅

 海外旅行の場合、千歳から羽田に行ってさらに成田経由で国外に行くというのは、それだけで疲れ果ててしまうが千歳から直接海外に行くというのは想像以上に楽なものだ。

いつか中国を見たいと思っていたところ千歳発着で三泊四日のツァーがあり、しかも以前から興味のあった万里の長城と水墨画の世界である桂林、それに秦の始皇帝の兵馬俑を訪ねるという内容バッチリの超豪華三点セットのツァーで、反射的に参加を申し込む。

今回参加者は24名となったが、そのうち私ともう一人が単身参加である。

 4月9日午後2時近くに中国国際航空便で千歳から北京に向けて出発し、約3時間ほどのフライトで到着した。

北京空港では働く男女の大半が若者であり、特に働く若い女性が行く先々で男性と同じくらいの比率に見え意外な感じを受ける。聞くと中国は男女の平等権は日本以上に強いそうで空港に限らずどの都市どの職場でも同じであった。

また中国のトイレと言えばトイレにドアがないとか、小さな水の流れの側溝に並んでまたがり、各自用を足すといったような伝説的トイレ事情があったはず。

しかし空港のトイレはTOTO製で手洗いはオートで水が出てくるといった具合のピカピカの最新型で、どうも数年前まで抱いていた中国に対するトイレイメージがのっけから崩れてしまった。

*カー.ぺッ
西安では新築でかなりの豪華ホテルに一泊した。

翌朝ホテルの一階にある食堂で朝食をとるべく、7階でエレベーターを待っていると左手にある階段を人が昇ってくる足音が聞こえ、もうすぐ顔を出すといった近くまで来たところ、突然カーッという音に続いてペッという音とともにそれが床に吐き出された音が聞こえた。

一体どこの誰がとんでもない汚いことをよりによってホテル内でしやがってと見ていると、顔を見せたのはなんとそのホテルの従業員だったのには思わずのけぞってしまった。
その男性従業員は顔を合わせた途端、一瞬しまったというバツの悪そうな顔をしたもののすぐに何事もなかったような顔で平然と目の前を通り過ぎて行った。

このカー.ぺッは中国人の癖らしく、人が集まっているところでは必ずと言っていいほど誰かがやっている。

ところ構わず痰を吐き捨てるこの癖は北京オリンピック時、国から厳重な禁止令が出たほどで中国として自覚している有名な悪癖らしい。

吐き出す場所は植え込みの陰などが多いから、公園なんかで日差しを避けて木陰でゴロリと寝そべったリなどすると大変なことになるのだ。

001_2  豪華ホテルでも従業員のマナーは?

*スモッグ
中国は北京、西安、桂林をまわったがどの都市でも晴れているのだが空が何故かどんよりしていて、しかも空気が体にまとわりつくような濃密な重さを感じる。
ツァーの中国側添乗員に聞くと、これはコビ砂漠の砂塵が風に乗って空を覆っているせいだとの説明を受けたが、多分それだけではなく昭和30年代の日本がそうだったように、工場などから垂れ流しで出る排煙などが光化学スモッグとなっているように思える。
バスで都市間を移動するのだが、視界には建築中の高層ビルそしてクレーン、重機があちこちで驚くほど稼働していて、まさしく最も勢いのある国だなぁと実感させられ高度成長期だったころの日本の姿を彷彿とさせられる。

040 いたるところ高層ビル建築ラッシュ
044 建築物はマンションが多い
054 ビルは近代的なデザインが多い

*臭いものには蓋
最終日北京市内の旧市街を観光した。
そこは昔から手つかずの古い民家と崩れかけの塀に狭い路地が行き交いなんとなくオシッコの匂いさえ漂う街並みで、急速に近代化に変貌する北京の一部とはとても思えない昔の中国があった。
しかし近代化の波はこの街にも押し寄せていて、近々取り払われる運命にあるとのこと。

国民は土地を個人で買うことができない。なぜなら土地は全て国のもので国民は借地権を得て住居を建てるのだ。

したがって立ち退きは国からのほぼ一方的な強制であるらしく、居住権などというのはこの国ではまったく通用しないのだ。
なお北京オリンピック時は、この街並みを高い塀で完全に覆い尽くし、外国人から完全に隔離していた。

*漢字
中国人の92%は漢民族である。したがって文字も全て漢字が使われていて、個人的見解であるが使われている漢字の約7割くらいが日本で使われている漢字と同じで、平仮名が使われていない分だけ日本との違いがある。
大学、銀行、警察、石油、酒店、商店、保険、医院、石油など目についただけでも普通にある。
漢字は中国から伝わったので当たり前といえば当たり前であるが、それにしても字は同じでも発音が似ても似使わないほどまったく違うというのは何か不思議な気がする。

037 標識も漢字
095 パトカーにも警察の文字

*天安門広場
40万㎡の広さがあり一周すると30分はかかるらしいが、中国各地の田舎から多数の団体が観光に来ていてどれも同じような制服(作業服、ジャージ)なので、各団体が迷子にならないように遠くからでも見分けがつくように帽子を日本の小中学生の運動会のように白とか赤とかに統一していたのがおかしかった。

093 中国各地から団体で観光
056 通勤はバイクが多いが
ヘルメットなし
057 朝食は外食が多いらしい

*万里の長城

長城は中国各地からの観光客で驚くほど賑わっていた。

長城の上まではロープウェイで行くのであるが、ついた先の長城の通路はゆるい傾斜が付いていて数メートル歩くだけでも大変で息が上がる。

その昔、敵が攻めてきたらそこまで駆けつけて応戦するのであるが、移動するだけで疲れ果ててしまい、実際には物の役に立たたない見かけ倒しだけだったような気がする。

それにしても遥か山なみの彼方まで続いている長城は壮観そのもので、宇宙から見える地上で唯一の建造物というのも頷ける。

103 頂上は観光客で大賑わい
098 山の尾根伝いにどこまでも続く

*水墨画の世界

桂林という名の由来は、秋になると街中にキンモクセイの花が咲くことからこの花の名前をとって名付けられた。桂林では川を下りながら両岸から遥かに連なる奇岩を楽しんでいくのであるが、この景観にどんよりとした霧状のモヤがかかって水墨画のように見える。

奇岩は3億年前海底の石灰岩が隆起し、長い年月で風雨に浸食されて出来上がったもので川下りとともに飽きることなく変化していくのである。

068 川を下りながら水墨画の世界に浸る
073 景色は千変万化していく
081 桂林山水甲天下の景観

*兵馬俑

西安は昔長安と呼ばれ秦、漢、隋、唐などの都でシルクロードの出発地として有名な所だ。

西安市郊外にある兵馬俑抗博物館は、約40年ほど前に中国史上最大の権力を誇った秦始皇帝陵の近くで農民が井戸を掘っていて偶然発見し、そのまま屋根をつけて博物館にしたもので展示されている6000体を越える膨大な数の兵馬俑に圧倒される。

また博物館近くにある始皇帝陵には始皇帝が死後も変わらぬ暮らしができるよう、壮大な地下宮殿が建造されたとのこと。

宮殿は発掘調査されていないが、兵馬俑の規模からいって想像を超える豪華さだと思う。

008 青銅製の馬車
粉々に砕けていたものを復元したもの
011 陶製の武士像が発掘されたまま並べられている
013 実物大で服装や装備など一体一体異なる

中国人の顔つきは一目でそれと分かる人もいるが、大半は日本人と見分けがつかず口から出てくる中国語で判別できるほどだ。

多分我々の祖先を辿っていけば大部分が中国に行きつくのだろうと思う。

また中国は(台湾も中国の一部とすれば!)唯一共通の漢字を使う世界で最も日本に近い民族であるが、歴史的な過去に加え主義思想が異なるということもあって距離は近い国だが相当遠い国でもある。

ただし中国は限りなく広く魅力的な地域は限りなく沢山あるので、また機会があれば訪れたいと思っている。




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トルコ熱波の旅

平成22年8月7日早朝千歳空港を出発し成田空港で息子と落ち合い、家族三人と参加者21人それに添乗者を含めた計25人でトルコへ向けて出発した。

私がトルコについて知っている単語と言えばトルコ石にトルコ風呂、それにトルコ行進曲とムスタファぐらいで焼き肉のシシカバブもそうかなぁ、といった程度のなじみの薄い国である。

トルコを目的地としたのは、息子の夏休みに合わせたツァーがトルコしかなかったというかなりいい加減な理由からだ。

そんなわけであまり期待もしていなかったが広い国だけに行く先々で変化が大きく、見所も結構あり、また食事もなかなかのものでうれしい誤算となった。

※トルコ露天温泉

 パムッカレ(綿の城という意味)は高さ約200m、幅1キロくらいに渡ってむき出しになったまっ白の石灰岩と地下から流れ出す温泉で、いくつもの小さなプール状の浅いお湯溜まり(お湯といってもやや水が生ぬるいといった程度)の棚田のようになっている。

 水着を着てこの生ぬるい温泉に横たわっている人もいるが、ほとんどの観光客はズボンの裾をまくり上げて入っている。

 このお湯がブルーに見えるのは晴れ渡っている青空が温泉に映るからで、石灰岩の白とお湯のブルーのコントラストがとても美しいところである。

T6_3 純白の温泉棚田
Tl2

お湯の下は溶けだした石灰でヌルヌル。             これを塗ると美容に良いらしい

※巨大木馬

 トロイの木馬は神話に出てくるギリシャとの戦争の話で、ギリシャ軍が兵隊を木馬の中に隠してトロイ城の門の前に置き、トルコ軍がこの木馬を城の中に引き入れてしまい夜中に兵士が木馬から出てきてトロイを滅ぼしてしまったという、トルコにとっては屈辱的な神話であるが逆にこれを観光の目玉にしている。しかし復元している木馬はあまりにも観光目的で遊具的すぎるので笑ってしまう。

T8 木馬に入ることができるが、そんなことよりリアリティがほしい
Tl5_2 遺跡は結構ある
T7 古代共同トイレは遮るものはなく仲良く並んで!

※蟻人間

 トルコ人というのは石の穴倉が大好きだ。特にカッパドキアには彫りやすい岩石地帯が多く夏は気温が40°前後の高温になるから石の中だと涼しくて住みやすいらしく、現在でも岩をくり抜いた住居で暮らしている人は結構いる。

T1 岩石は軟らかく加工しやすい
T11 岩家屋の町並み

 また遺跡であるデリンクュ地下都市は、その昔キリスト教徒がイスラム教徒から迫害を受け、地中深く隠れ住んだという歴史的事情もあるが、地下8階深さ85mに約1万人が暮らしていたという。

 それにしても宗教上の理由で、地下深く全く日の当らない暗く狭い蟻の巣穴のような住居で一生を終えるというのは想像もできない。

 カッパドキアにはこの他、地下住居が約300か所に4,000から5,000人位が暮らしていたという。

Photo 地下都市内部、ここで一生を過ごした
T4 部屋から部屋をつなぐ通路

※ダンス

 へそを出してかなり露出度の高い衣装を着て腰を振りながら踊るベリーダンスがとても有名だが、いかんせんダンサーが中年のかなり太めのオバサン達で一生懸命踊ってはいるのであるが、どうしてもダンサーを見ると興味が相当というかまったくというか無くなるのである。

T15 ベリーダンス!

※トルコ名物

 トルコ石の原産国はイランである。トルコでも採れることはとれるらしいが少ないようだ。

 オスマントルコ時代、ペルシャ(現代のイラン)はトルコの領土であった関係から、トルコ石といっても間違いではないらしい。

またトルコ絨毯は嫁入り道具のひとつで、シルク製が最高級品だ。値段は四畳くらいで日本円にして12~3万円する

 革製品(バック、コート類)はたいへん有名で、ヨーロッパを中心に世界各国に輸出されている。

 しかし輸出先でそれぞれのブランド名をつけられるので、トルコ製品というのはあまり知られていないらしい。

 こうした革製品の販売店では、本格的なファションショウを開催しツァー客をモデルと一緒に舞台に上がらせ、その気分にさせて革製品を買わせようという魂胆らしいが、商品はかなり高額なものが多く客はモデル気分を堪能はしても買った人は誰もいなかったようだ。

T12 ツァー参加者は本格的なショーを体験して大喜び

 トルコの国は広いがその半分位は(アジア側)河川一つない岩石だらけの荒れた乾燥地帯で、背の高い太い木々は一切ないしもちろん農業にも適していない

 しかしイスタンブールに近づくほど(ヨーロッパ側)河川が現れ緑は濃くなり木々も大きくなる。

Tl3 アジア側は河川がほとんど無い、乾いた荒野が多い
T16 都市に近ずくと新築マンションを多く見かける
T14 イスタンブールヨーロッパ側の街並み

 大都市イスタンプールは東西を海峡で仕切られていて、東側がアジアで西側ががヨーロッパにかかり、このため建物など街並みが両地区でそれぞれ異なる。

 イスラム教の寺院(モスク)は大小の規模の違いはあるものの、丸い屋根に尖塔など総じて同じつくりで驚くほどあちこちにある。

T9

モスク内部の青いタイルから、ブルーモスクと愛称で呼ばれるイスタンブールで一番の名所

 町並みや土地風土はギリシャに似ているが、ギリシャより相当豊かなようである。

 トルコのアジア側の一部の地域はイランやイラクの国境に面していて、治安という面でどうなのかなという心配もあったが全くの杞憂で、国はとても平穏で総じて人も良さそうな感じで40°という猛暑を除けばかなり好感度の高い国であった。

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エジプトゴロゴロの旅

数年前欧州を旅行した際、そのツァーの女性添乗員から「文明発祥の地7千年の歴史を持つエジプトは絶対に一度は観ておかなきゃいかんよぉ、しかも足腰の丈夫なうちに行かなくっちゃ」という話を聞いて以来、海外旅行の候補地としてエジプトは常に一番目にランクしてきたのであるがそのたびに治安に問題があるとか、ツアーの日程が合わないとかで都度見送ってきた国だ。

平成21年の今年は全ての問題をクリアし88日、家族そろって成田からカイロへ向けて8日間のエジプトツァーに出発することができた。

エジプトは名にし負うメシの不味い国と聞いていたので(首都のカイロに近年開店したマクドナルドが高級レストランにランクされているというほど)おそらくエジプト航空の機内食など食えたもんじゃないだろうという勝手な憶測のもと、いなりずしなどを買い込んで機内に乗り込んだ。

ところがエジプト航空もさるもの搭乗者確保の国際競争が熾烈ということもあり、サービスには力を入れていて、そのためか機内食はカレーライスやおにぎりなんかが出てきて全く問題なしであった。

14時間のフライトのすえエジプトの首都カイロに到着したのは午前1時過ぎの深夜であったが、驚くことに歩道は人で溢れかえり、ナイル川のほとりや各自宅前などにはそれぞれ数人のグループが思い思いにごろごろたむろし、道路には果物売りの屋台が出ているなど1500万都市らしい賑わいを見せていた。

この人出は週末のせいかと思ったが、エジプトの休日は金曜日なので週末とは関係なく単に日中は暑いので、涼しくなる深夜に人々は活動を開始するらしい。

ただしこの国はイスラム教徒がほとんどで酒は一切飲まない。酒も飲まずに深夜の街を大勢の人々が意味なく長時間ウロウロしているというのもある意味不気味である。

※小悪党の群れ

観光初日、エジプトと言えば無論ピラミッドであるがカイロ市内をバスで走行していると、ビル群の間からピラミッドが顔をのぞかせ意外に市内から近いところにある。

Ep2 ビルや車の間から突然ピラミッドが顔をのぞかせる

ピラミッドのでかさと気温45°の暑さに圧倒される。

ツァー一行はクフ王のピラミッドの内部を見学した後、各自写真タイムということになった。

息子がそばに居た現地人にターバンを巻いてもらっていて、日エ友好親善といった和やかムードで一緒に記念撮影をした。

次に親子並んでいる写真を撮ってやると言ってカメラを取り上げ撮影したあと、現地人はカメラを人質に金をよこせと態度を豹変させた。

Ep1

親切そうなエジプト人は突如喝上げ屋に豹変した

一方娘は一人で適当に写真を撮っていたら、ラクダを連れた現地人が近寄ってきて有無を言わさず、いきなり娘を抱きかかえてラクダに乗せデジカメを取り上げて撮影し金を要求してきた。

父親側は10ドルを脅し取られたが、娘はノーマネーと叫びデジカメを奪い返しバスに逃げ込んだ。

後で写真を見たら娘はラクダの背中でしっかりとピースサインして2枚も写っていた。

各観光地にはほとんど同じようなやからが出没していたが、このピラミッド周辺が一番悪質のようであった。

これはどうもエジプトの貧民層に欧州のチップ習慣が誤って伝えられ、それが勝手にどんどん湾曲しエスカレートして行った果てのようだ。

※ワンダラー攻撃

あらゆる観光地でラクダのぬいぐるみ、絵葉書、ヘビのおもちゃ、パピルス(草の加工紙に絵を描いたもの)などを持ち、ワンダラー(1ドル)、ワンダラーと呪文を唱えるようにお土産の物売りが迫ってくる。

Ep3 お土産売りは全て男性で女性は皆無

ちなみに商品はどう見ても1ドル(96)では買えそうもないものばかりである。

エジプト人の男性は浅黒い肌に太いまゆげと口ひげ、それに白眼が目立つ濃い顔つきでニコリともせず無表情でワンダラー攻撃を仕掛けてくると正直怖い。

ツァー客42名のほとんどが初日に何らかの被害を被っているので、なるべくあまり関わりになりたくない現地人は避けるようになっていて、物売りとは目を合わせない、商品に興味を示さないといった防衛本能が自然と働いているようであった。

※クレオパトラの末裔たち

エジプト女性のなかで映画のスクリーンから突如抜け出してきました、といったような、すごい美人をたまぁに見かけることがある。

どうもほかの女性達とはあまりにもかけ離れているので、ごく少数の幸運な血筋の女性だけがその恩恵に浴しているらしい。

当然子供の中にもいて、旅行3日目に絨毯を制作している学校兼販売店をツァー一行が見学に立ち寄ったところ、はたおり機で56人の小学生が絨毯の制作に取り掛かっていたが、そのうちの78歳位の女の子が飛びぬけた可愛い顔立ちをしていて、娘に扇子やボールペンなどをねだった。

娘いわくあのウルウルした眼でせがまれたらどんな人でも絶対に断れないだろうとのこと。

他の子供たちもそのことが分かっているらしく、絶対に手を出してこない。

またねだった品物は慣れた手つきで受け取りケロッとした態度であった。

僅か78歳で自分の美貌がどれほどの効果をもたらすのかを熟知しているようで、将来どのような人生をたどるんだろうかなどと余計なことまで考えてしまい、さすがクレオパトラの国だけあるなぁと妙なところで納得したのだった

Ep4 眼だけ出している民族衣装を着た女性を時々見かける

※交通戦争

カイロは大都市で道路も広く交通量も激しい。ただし交通信号や標識、横断歩道はある所にはあるが、基本的にほとんど無いと言っていい。

従って車は押し合いへしあい、クラクションは鳴りっぱなしだ。

車をよく見るとこすりキズのついている車だらけで、無傷の車を探す方が難しいくらいである。

驚くのは車の交通量が激しいなか4車線の大きな通りであっても、人々は老いも若きも女も子供も犬も猫も、道路を横断すべく車の洪水に向かって道路に飛び込んでいくのだ。

それもまとまった人数ではなく、ひとり一人が思い思いに勝手に横断したい場所で突撃して行くのである。

いったいどれほどの交通事故が発生しているのか分からないが、おそらく凄まじい数字だろうと思う。

Ep5 道路を横断している人を見るとこっちがハラハラドキドキする

※砂漠の国

旅行3日目、早朝カイロからエジプトの奥地ルクソールへ飛行機で移動した。

エジプトは国土の95%が砂漠と聞いていたが、飛行機から下を見るとナイル川が大きく蛇行しながら流れていて、その左右数キロが緑地帯になっていてそれが人の生活圏になっている。

それを外れるとはるか地平線の彼方まで、岩石と砂漠が続いている不毛地帯で建物一つない世界が広がっている。

またそうした砂漠には数万年あるいは数億年前なのか分からないが、かつては驚くほどの無数の河川があったらしい。

それは河川が干上がりその跡に白い砂が埋まって、その痕跡を逆に際立たせていて川の形が支流の果てまではっきり分かるのだ。

おそらく川が流れていたころは、エジプト全土が緑豊かな国であったようだ。

239jpep6 砂漠に現れた蜃気楼
はじめの内撮影とかで大騒ぎだったが蜃気楼は頻繁に現れるので誰も見向きもしなくなった

※エジプトあれこれ

昼日中、家の前などでぶらぶら、ごろごろしているヒマそうな人達をよく見かける。

これは公務員の給与が民間企業に勤めている人に比べ異常に安いそうで、このため出勤しても午前中にはさっさと家に帰ってしまう人が大半で、このためヒマを持て余している公務員が街中に溢れているのだそうだ。

エジプトは貧富の差が激しいが、義務教育は全ての国民が受けられるし、給食も国が全額負担していて教育にとても熱心な国である。

アラビア語は世界でもっとも難解な言葉と文字であり、現地のエジプト人ガイドに言わせれば日本語などアラビア語に比べれば何ということも無いそうである。

エジプトは遺跡の国である。というより遺跡の中に国があるといった方が早いようだ。

Ep7_2 

ラムセスⅡ世が建造したアブ・シンベル神殿
期待通りの素晴らしさに感動する

Ep11 ルクソール神殿の大列柱廊に彫りこまれた象形文字
Ep10 ルクソール遺跡の入り口にあるメムノンの巨像

ピラミッドのほか巨大神殿などがいたる所にあり、王墓を含めそのどれにも壁画や象形文字が彫りこまれていて見る者を圧倒する。これに比べると数年前に訪れたギリシャの遺跡群など子供だましに思えるほどだ。

博物館ではツタンカーメンの黄金のマスクをはじめ、夥しい出土品が展示されているがエジプト史上最大の権力を誇ったラムセスⅡ世や王家の人々のミイラも多数展示されている。

ご本人たちにしてみれば墓から勝手に掘り出されて、まさかこんな所に陳列され世界中の観光客のさらしものになるとは夢にも思わなかったに違いない。

そう思うと何か気の毒に思えるが、まさに死人に口無しである。

しかしながら見方を変えれば、ご本人たちが夢見た現世への復活は全く異なった形で、ミイラであるがためにこうして現代に甦っているのかも知れない。

※テロ対策

空港はむろんのこと観光地や博物館などいたる所でこれでもかというほど手荷物検査をやっていて、そこには必ず自動小銃を抱えた警官が詰めている。

Ep9 警官はかなり横暴で市民には相当嫌われているらしい

また郊外の道路という道路は数キロごとに検問所があり、武装警官がいて戦争でもしているのではないかと錯覚するほどである。

長距離バスには警官が1人自動小銃を抱えて乗り込み護衛することが義務付けられている。

ただしこの警官、バスが休憩所で止まると自動小銃を座席の上にほったらかしにして、バスを降りてしまい物騒なことこの上ないのだ。

※ゴロゴロの旅

強行スケジュールに50°近い暑さとクーラーの効きすぎなどで、大方の人は体調を崩すらしいが、さらにエジプトでは水道水はじめ生水や氷など絶対飲まないようにと、添乗員から注意されていたし旅行案内書にも書いてある。

それで注意深く食事などには気を付けていた。

ではエジプト人はどうなのかと言えば、カイロ市内を流れている川面がゴミで埋め尽くされているドブ川で大勢の人が食用にフナのような魚を釣っていたし、驚いたことにこの川で泳いでいる人も見かけた。

またナイル川で小舟に乗って漁をしていた少年は川の水をペットボトルに汲んでそのまま飲んでいたし、家の前に置いてある雨水桶から柄杓で雨水を飲んでいる人も見かけた。

日本で水質検査に合格した水しか飲んでいない我々とは体の構造そのものが違うようである。

Epl 建機店の隣に肉屋
天井からかぎ針に肉塊がぶら下がっている
Ep13 主要農産物はナツメヤシの実

旅行4日目の朝、目覚めとともにお腹がゴロゴロ鳴り出し、トイレに駆け込むと未だ経験したことがないようなひどい下痢になっていた。

腹痛なし、発熱なし、嘔吐なし、ひたすら下痢だけでツアー参加者の大半がやられた。

しかもホテル以外のトイレのほとんどは有料であるが、その大半はひどく汚れていて便器の数が少なく並んで順番を待つといった状態が続いた。

ちなみに正露丸、下痢ストッパーなど何を服用しようが症状はまったく変わることなく全員お腹がゴロゴロ鳴ったまま最終日まで続くのであった。

そしてそれは帰国後45日も続いたのであった。

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平成20年ヨレヨレの旅

旅行というものは行き先がどこであろうが心躍るもので、できれば一年中どこかへ行っていたいが費用という面で相当制約される。

所持金なしで放浪という手がないわけではないが、年を重ねた身ではどう見てもホームレスにしか見られないし、またヨレヨレの体力にも問題がある。

従って平成20年の旅行は海外1回、国内2回の合計3回のみであった。

1】海外編

.海外旅行は8月にチェコ、オーストリァ、ブタペストの東欧3ヵ国を訪ねるツァーに参加した。

東欧諸国のツァーとなると参加者はヨーロッパの主な国は既に大方訪問していて、最後に東欧にでも行ってみるかぁというような海外旅行の超ベテランがほとんどで、参加者は総勢30名になった。

成田で添乗員から簡単な渡航手続きの説明を受けた後、毎度のことながら狭い座席に閉じ込められ、次から次へと不味い機内食をほぼ強制的にとらされるという完全ブロイラー状態で、10数時間の拷問のような拘束時間の果てにロンドン空港を経由して、最初の目的地プラハに夜遅くに到着した。

東欧は緯度が札幌と同じくらいなので気候も似ていて真夏だが結構涼しい。

翌朝からプラハを振り出しにウイーン、ブタペストを巡る8日間の旅に出たわけだが、どの都市でも城、教会、公館、橋に道路、商店街や住居など石造りの建造物は中世の佇まいを色濃く残しており、パリなどの都市にも負けず劣らずの美しい街並みを誇っている。

89t_2 チェコの首都プラハ
カレル橋からプラハ城を望む
89tc_2

オーストリァの首都ウイーンにある国会議事堂

89tb_2 ブタペストの世界遺産の一つドナウ川に架かる鎖橋の夜景


 ヨーロッパにおける食事の不味さはどの国どの都市でも変わらない。
基本的に牛肉は素材そのものがよろしくなく、豚のほうがずっと旨いようだ。

魚類はタラやスズキのような白身の魚を揚げるかバターを主に使用してソテーするといった片寄った調理が多い。

特に海から遠い内陸の国ではシーフードのメニューは極端に少なく、市場に行っても魚屋は見当たらなかった。

またジャガイモが必ずと言っていいほど付け合わせに出てくる。ジャガイモははるか昔にスペインが南米のインカを滅ぼしたおり、インカから欧州に伝わったもので今では最も欠かせない食材になっているようだ。

よく海外旅行のテレビでタレントがレストランや食い物屋で何を食べても美味いと叫んでいるが、雰囲気とか演技で言っているような気がする。

食事時ともなればレストランは一斉に通りに椅子やテーブルを出し、人々はそこで食事をとるがその脇を大勢の通行人が行き来しているので、たぶんもう一つの調味料が自然と加わっているのに違いない。

チェコの首都プラハでこの国の伝統芸能である人形劇を鑑賞した。劇場は三階にある屋根裏部屋のようなところにあり、一列10人が座れる木製のベンチが階段状に7列ほど並んでいてすぐに超満員になった。(劇場は無数にあるらしい)

上演時間は約2時間ほどで、狭い舞台に登場する人形は4体と大魔神だけで、物語は貴族の夫婦と騎士との三角関係を不倫シーンや決闘シーン、地獄編などを織り交ぜ、かなり大雑把に人形をバタバタ動かしていくというもので、日本の文楽のような繊細さは微塵もない。

またこの間、物語の進行に合わせてオッサン歌手のカンツォーネ風の歌のテープが朗々、延々と休みなしに実に2時間も回り続ける。

当然ながら観客の大半は開始230分で眠りにつくのであった。


89ta_2 チェコの人形劇はひたすら眠いのであった

この東欧の旅でヨーロッパのほとんどの国を訪問したことになるが、どの国でも「24時間営業のコンビニ、自販機、ウォシュレット」を一つとして見かけたことはない。

どうして自販機は置かないのか現地のガイドに聞いたら、設置したら24時間以内に間違いなく自販機ごと盗まれるだろうということであった。

それにしてもチップという習慣ほど馴染まないものはない。とにかく面倒くさいし、忘れると怪訝な顔をされるし、それなら初めからチップいくらですと請求された方がずっと楽である。

同じ欧州でもチップの習慣のない国もあり、添乗員からこの国ではチップは必要ありませんと言われるとホットするのだ。

石作りと木造建築という外観の違いもさることながら、宗教はじめいろいろな面で距離も含め、欧州は遠い国だなぁと改めて実感するのである。

2】国内編 その1

5月に東京で開催した高校のクラス会に出席した。高校は東京で後に札幌に転居していたせいでクラス会は47年ぶりで初めてとなる。

札幌からクラス会のためだけで上京するのはもったいないので、以前から行きたかった黒部ダム観光も抱き合わせで盛り込んだ。

クラス会は同級生が中野で営んでいるカウンターとテーブルが一つだけの狭いウナギ屋で出席者14名が集まって開かれた。

約半世紀ぶりに顔を合わせた同級生は、各自それなりに風化していたものの誰が誰かはすぐに分かった

会場のウナギ屋は漫画「おいしんぼ」にも登場する、知る人ぞ知るといった名店で予約を取るのもなかなか難しいらしく、出てくる料理はウナギの肝や皮の串焼きに燻製とか初めてづくしながらとても旨かったのである。

クラス会を終え、東京駅から新幹線に乗って長野に午後8時頃に到着し遅い夕食をとることにした。

長野は蕎麦以外にこれはといった名物は無いらしい。

旨そうな蕎麦屋を探したが、特にそんな店も見当たらないので駅前のビルにある普通の蕎麦屋に入り、天ザルを注文した。

出てきた蕎麦は「夜も遅いのでこの程度です蕎麦」であった。しかも食べ終わってそば湯を飲みながら携帯でメールを打っていたら、飲みかけのそば湯ごとさっさと下げられてしまった。

翌朝長野駅前からバスで扇沢まで行き、そこから立山まで約6時間半のアルペンルートを辿った。

途中黒部ダムの展望台にある売店でお土産を物色していたら、ここでしか売っていないから逃したら後悔するよぉと素朴そうないかにも山男といった初老のおじさんに言われ、あわてて買った黒ユリのバッチは行く先々で大量に売っていた。

黒部ダムをバックに写真がほしかったので、前を行く30代初め位の女性に声をかけて丁重に撮影をお願いしたところ、付近に人が居なかったせいかやや警戒されながらも撮ってくれた。

その女性も一人旅らしく黒眼が目立つ愁いの含んだなかなかの美人で、寅さん映画だとこのあと運命的な再会があり、お定まりの展開となっていくのであるが、そんなことはまったく無く午後4時頃立山に着いた。

途中立山連峰をトロリーバスやケーブルカー、ロープウェイなどでトンネルや雪壁の道路を辿って行くが、トンネルでは何箇所か山肌から滲み出す清水が飲めるようになっていて、とても冷たく美味しい水であった。また要所ごとに売店と食堂があり、そこで食べた立ち食い蕎麦はこの岩清水を使っているせいか、感動的に旨かったのである。

019 黒部ダムはとてつもなく巨大であった

富山ではホテルに置いてあった案内図を見ていると、お酒禁止の寿司屋があったので、酒の飲めない身としては心ひかれたので早速行ってみた。

札幌から来たと言うと店主はたいへん喜んでくれ、何くれとなく産地のネタだけを選んで出してくれた。

禁酒はどうしてかと聞くと酒を飲むと寿司をすぐに食べず、時間をおいてから食べるので寿司の味が落ちる。それで禁酒にしているとのことで、儲けに目をつぶったこだわりの店であった。

どうも私の旅は食い物だけに興味を示すというか関心がいっているようで、後から振り返っても食べ物のことしか浮かんでこないのである。

3】国内編 その2

その昔初めて就職した会社の1ヵ月間にわたる新人教育期間中、他にやることもなかったので毎晩麻雀が開帳され、その掛け金で飲み会をやるというのが日課であったが、その麻雀のメンツに数人が参加して8人のメンバーで同期会を結成、以来実に44年間に亘って途切れることなく毎年一泊二日の旅行を実施している。

平成20年の同期会の旅行は参加者7(1)で、輪番でやることになっている幹事の一方的な決定に従い、車で札幌を振り出しに日高路を辿って襟裳岬を訪ねるというルートが選ばれ、途中新冠ダムの紅葉を鑑賞するという趣向が盛り込まれた。

新冠ダムは40年ほど前にダム建設工事を見学のため10月に訪問し、紅葉の景観に圧倒された思い出がある。

今回同じ時期に再び訪れたわけだが、紅葉はそれなりに素晴らしかったものの当時受けた感動とはかなり違ったものであった。

紅葉は陽の光が木の葉に当たって煌めく場合と、くもり空の下で観賞するのとではまるで美しさが違うし、当時山道を登って行く途中道路に覆いかぶさるように輝いていた紅葉の木々が、ほとんど伐採されていて当時の景況とはかなり違っていたことにもよるらしい。

子供の頃とかその昔に観とか感じたもので、相当のインパクトがあっものをかなりの年月を経てあらためて見ると、実はそれほどでもなかったというのは良くあることである。

当時に比べ若干期待外れながらも、仲間達は紅葉を楽しんでいたようであった。

秋の日高路を競走馬とたわむれ、ゴマフアラザシを鑑賞し、お土産にシシャモを買い、浦河では昼食に冗談としか思えないような超巨大なかき揚げが二つも乗ったかき揚げ丼と闘い、それでも狭い車内で7人のオジサン達は、和気あいあいとメタボを気にしつつもひたすら飲みながら、食いながら旅を続けるのであった。

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進化するトイレ

最近本を読まなくなった。以前仕事で忙しい日々をすごしていた頃は、わずかな暇を見つけてはジャンルを問わず片っ端から本を読み漁っていたが、勤めをリタイアして時間を好きに取れるようになったら逆に本から足が遠のいてしまった。

これではいかんなぁと思い本箱の中から未だ読んでいない本を探していたら、好きな作家の1人でもある椎名 誠の紀行本が出てきた。

だいぶ前に読んだ本だが、ページをめくっていたらつい時間のたつのも忘れて読みふけってしまった。

この本は椎名氏が中国奥地の楼蘭、ロブノールを旅行した時の紀行文だが、そのなかで世にも名高き中国トイレ事情に触れている項があり、特にすさまじいというか壮絶なトイレの話が紹介されている。

「中国の大河、長江を重慶~武漢まで2泊3日で下って行く船旅がある。この船の五等席の船室は雑魚寝式になっていて、2、3百人がここに詰め込まれる。問題なのはここのトイレが二つしかないことである。朝になると当然ほとんどの人々がこのトイレに押し寄せるがこの人数で二個となると相当長時間待たなくてはならない。本当に最後までおとなしく順番が来るまで1人づつ待つのか? 答えはノーである。ではどうするかというと、何とひとつのトイレに対し3人が背中合わせに体(尻)を寄せ合い、ひとつのトイレで3人が同時に用を足してしまうのだ。」

これ以上詳しく触れていないので分からないが、トイレの形状は穴がポッカリあいただけの物なのか、老若男女の別はどうなっているのかとか、3人の内用を足した人から順番に入れ替わるんだろうなぁとか、中国のこうしたトイレなら当然ドアや仕切りなんかついていなくて、その前に大勢の人々がトイレの進行状況をモロに見守りながら順番を待っているんだろうなぁなどと、いろいろと想像はつきない。

トイレの形状で思い出したが、平成19年の夏、ギリシャを旅した時のこと、エーゲ海のほとりにあるレストランでランチを摂った。

エーゲ海の名物シーフードのから揚げがどーんと出てきた。

小魚、イカリング、エビなどのから揚げにレモンを搾って食べるが、一口食べた瞬間ウムム!!とうなった。

なんか油っぽいというかイヤな感じがした。使い古しの油だな、そんな感じであった。まわりは家族を含めツアーの人達は目の前のエーゲ海に見とれながら、おいしそうに食べている。

食事を終え海辺を散策していたら、予感どおり腹具合がおかしくなってきた。他の人は何でもなさそうだが、私は特に古い油には極めて敏感に反応するのだ。

慌ててそのレストランのトイレに駆け込んだところ、驚いたことに和式トイレ(日本人観光客用に設置しているらしい)が一つあり迷わずそこに飛び込んだ。

そして困惑した、確かに和式トイレだがキンかくしが付いていない。楕円形の便器か゛あるだけでつまりどちらが前か後ろかわからない、しかも事は緊急を要している。

確かめる間も無くそのまましゃがみこんだ、つまり壁側に頭、ドア側にお尻を向けた格好で、日本では洋式を除いてはごく一般的なスタイルである。

用を足しながら水洗のレバー、ボタンもしくは紐などそれらしき物を捜すが無い、そんなはずは無い、落ち着いて一つづつ丁寧に慎重に何度も見渡すが影も形も無い。

仕方が無いので全て済ましてから立ち上がったところ、頭の上にらしき短い紐が天井からぶら下がっていた。

その紐を引いたところ何と足元から水がものすごい勢いで噴出した、つまりドア側から壁に向かって水が流れたことになる。

結果として反対向きで使用したため、水の噴出孔を塞ぐ形で大量の物資が置かれたことになり、このため水が流れた後は堤防の決壊もしくは津波という阿鼻叫喚地獄の修羅場と化した。すまぬ・すまぬと心の中で平謝りしながらそっとそ知らぬ顔でトイレを抜け出したのであった。

日本人の恥さらしめと非難を浴びるかも知れぬが、レストラン側にも古い油を使ったり便器の前後の表示が無いなど責任の一端はあるのだ。 と思う。

移動するバスの中であれに比べれば遥かにましだと、1人で慰めていたことを思い出した。

それは司馬遼太郎の代表作の一つでもある「翔ぶが如く」という、西南戦争を中心に近代日本の創世期を描いた大河小説のほぼ冒頭で書かれている事件だ。

これは後に初代警視総監になった川路利良が、明治政府の警察制度確立のためフランスに視察で訪れたときのこと、マルセーユからパリに向かう列車の中で体調不良になった。~中略~持っていた日本の新聞紙を床に敷き毛布を肩までかぶり、毛布の中でズボンをぬぎ腰を少しずつずらせて床の上にしゃがんで用を足してしまい、それをそのまま新聞紙にくるみ、わっと窓から外へ投げ捨ててしまった。

それが保線夫に当たってしまい、新聞紙が日本のものであったため犯人が日本人らしいと問題になった。という下りだ。

小説と一緒にするやつがいるかと怒られそうだが、敬愛する司馬良太郎氏は史実を徹底的に調べ上げそれに基づいて創作しているので、事実かそれに近いことがあったに違いない。

話はどんどん飛ぶが、パリといえばトイレ事情について、どうしても触れておかざるを得ないところだ。

パリは世界中でもっとも街並みの美しい都市だと思う。街の中央にそびえるオペラ座、エッフェル塔、凱旋門、ルーブル美術館、それにどこまでも続く石造りの壮麗な建物群、シャンゼリゼ大通などプラタナスの街路樹がよく似合う。

こうした美しい街並みを日本と同じように、ペットの犬を連れて散歩している人が沢山いる。

 ただし日本と違うのは犬を連れている全ての人が、犬の糞の後始末を絶対にしないことだ。従って街中いたるところに犬の糞が落ちている。僅か二日のパリ滞在で2回も犬の糞を踏んでひどい目にあった。

フランス人は元来ウンチというものに極めて寛大な人種である。

 住居は古来よりほとんど高層マンションであるが、その昔こうした住居にはトイレというものが無かった。どうしていたのかというと、オマルみたいなものに排泄し、翌朝窓から通りにそれをぶちまけて捨てていた。

 この時代カップルが通りを歩くときは男性が建物側、女性が道路側と決まっていたし、マントが流行ったのもこうしたことが背景だ、また女性のハイヒールが発明されたのも必然性からだ。

あのベルサイユ宮殿ですらかつてはトイレがなかった。毎晩のようにパーティが開催され、大勢の人々が集まったが、もよおしてくると紳士淑女は、そっと庭に出て植込みの陰で用を足していた。

太陽王ルイ16世やマリー・アントワネット皇女の時代である。ただしマリー・アントワネットだけは用を足す小部屋がありそこでオマルを使用していたらしい。

一時日本で話題を集めた、あのベルバラのオスカルだって庭の植え込みを利用していたことになる。

 ベルサイユ宮殿の目の眩むような広大な庭園は、生垣や植込みが至る所にあり確かにそれをするのに便利なようにできている。

因みに当然のことながら臭気がひどく、このためその対策として香水が発明されたという説もある。

海外旅行で一番わずらわしいのは、チツプとトイレである。ヨーロツパの大方の国の公共トイレは有料で大概こわそうなオバサンが睨みを利かせているし、そうでない所は汚い、またウォシュレットという設備はどの国でも見たことが無い。

 未だに分からないのは男子トイレの小用の通称アサガオ、つまりオシッコの受け口だが、どの国でも大変高い位置に付いていて背丈170cm位でも、つま先立ちしなければ届かないというのはざらにある。

 スペイン人あたりはさほど背が高いわけではないのに、異常に高い位置にあるものもあり、絶対に踏み台が必要な人もいるであろうトイレもある。いったい子供はどうするんだろう、女子トイレを使うんだろうなぁと思うが不思議である。

まさかヨーロッパの男性は、あれがホース状に伸びる?という訳ではないだろうなぁ。

日本はトイレに関して今では超先進国になっているが、明治の終わり頃までは紙の代わりに葉っぱや木とか縄を利用していた。

一般的に紙を使用し始めたのは新聞が農村部にも普及し始めた大正に入ってからだし、汽車のトイレは昭和30年代頃まで線路に垂れ流していた。

一方家庭ではポッチャン式であったのは言うまでもないが、札幌に居住していた我が家では冬になると汲み取り口がはるか雪の下になってしまうので汲み取りは不可能となる。

また堆積物が凍りつくため徐々にそれがピラミット状に盛り上がり、日増しに近づいてきて子供心にトイレに行く度に恐怖が込み上げてくるのだったが、うまくしたものでアッもうダメもう限界といったギリギリの頃、雪溶けが始まり事なきを得るのであった。

今や日本において水洗式は当たり前だし、ウォシュレットの一般家庭の普及も凄まじいものがあり、どんな辺鄙なゴルフ場のハウスのトイレだってウォシュレットだし、ホテルに至ってはほとんどといっていいほどだ。

このように日本人の生活様式において、わずか3、40年位でトイレほど飛躍的に進化した物は無いと思う。

世界にはさまざまなトイレ事情があるし、その国その国で独自のトイレ文化を持っているようだ。こうしてあーだこーだと言ってると、誰かに言われそうである。

「 トイレなんていうものはグダグダ言わずに黙って はいっトイレー 」 。

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夜釣り

最近〔夜釣り〕にはまっていると言うと、大概の人はニヤリとしてほほう酒の飲めないアンタがねぇとか、はたまたいい歳をしてついに狂ったかとか,とんでもない勘違いをされる。

夜釣りと言うと一般的なのは磯釣りだし、船での夜釣りと言うとイカ釣りだが、イカ釣りでは数多くのイカ船が集まり、その集魚灯であたり一面真昼と変わらないぐらい明るく賑やかで、まるでお祭りの夜店出店といった感があるが、ここにいう夜釣りはたった一隻だけで真っ暗闇の海上を走行し、はるか沖合いに行って釣るというやり方だ。

この文章を作りながらテレビを見ていたら千葉県沖合いのまだ暗い早朝、漁船にイージス艦が衝突し漁船が真っ二つに割れ、漁師二人が船から投げ出されて行方不明だと報道していた。

夜の海が危険だという面では、我々がよく行く石狩新港沖合いの深夜の海上には巨大な外国船が出入りしているし、夕まずめの小樽沖では海上自衛隊の巡洋艦や潜水艦など数隻による演習を目撃したこともある。事故は起きてはじめてその危険に気づくものだが、夜の海というのはわれわれ釣人には感じない危険がその他いろいろとあるんだろうなぁ、と思うが幸いなことにまだ危ない目には遭っていない。

 夜釣りの魅力はなんと言っても大物が釣れることにあり、釣期は毎年6月頃から始まり12月初め頃まで続く。狙いはヒラメにソイ(主にクロゾイ)、それに秋口にはブリが加わる。

 午後6時頃石狩新港を出航し、約1時間ほど走って厚田沖に到着、日没を待ってイカを釣る。この釣りたての生きているイカが餌になるのだ。ヒラメは生きている魚類かそのように見える物しか喰いつかない。もちろん餌用なのでこのイカは小さいほどよろしい。

 船のライトを煌々とつけると、その灯りにカタクチイワシなどの大量の小魚が群れを成して集り、船を中心にいつまでも泳ぎ続けるのが船の上から見え、その様は壮観そのもので昼間の釣りでは絶対にお目にかかれない光景だ。この小魚の中には、何故か北海道には生息していないトビウオなんかもいて、船の中に飛び込んでくることもある。

 

ヒラメやブリはこの小魚を狙って船に寄ってきて餌のイカに食いつくが、釣れればほとんどが50cmを超える良型ばかりだ。また体長1m以上もある鮮やかな色彩のシイラの群もやってきて、盛んに小魚を捕食する姿がよく見られる。時には巨大なヒラメが海面まで上がってきて、小魚を捕食する姿も船の上から見える時がある。

こんな時には発作的に海に飛び込んで手掴みでもしてやりたくなるが、いかんせん泳ぎに若干の問題があるので指をくわえてあきらめざるを得ない。

ヒラメが餌のイカに近づくとイカだって命は惜しいと見え、怯えて逃げようとするので竿先は微妙な動きをみせる。こんな時は今か今かと待つことしばし、相当ドキドキしかなり血圧は上昇する。ヒラメはタラやカジカのように、餌さをいきなり一気に飲み込むような品の無い食べ方はしない。

ヒラメは餌に喰いつくとそのまま数秒間(時には数分間)、餌を押さえ込みしばらくかじってから飲み込むようだ。つまり高級魚は高級魚らしい上品な食べ方をするようだ。

このため初めのアタリは小刻みに小さく、しばらく待つと一気に竿先を大きく引き込む。この時にリールで巻き上げるが(早すぎるとほとんどバラす)、大物ほど引き込みは強く、手ごたえ十分で大物かどうかはすぐにわかる。

この駆け引きがヒラメ釣りの何ともいえない面白さである。

ソイ釣はヒラメと同じく船の灯りで小魚を集めて釣るやり方は同じであるが餌は生餌でもいいがオオナゴやサンマ、豆イカなどで釣るのが一般的だ。

平成19年7月ソイ釣で隣の釣人が大きく竿をしならせてようやく釣り上げたクロソイは、見たことも無いほど巨大で魚箱から大きくはみ出し、釣り上げた人が余りのデカさに気持ち悪がっていたほどだ。

闇の中をたった一隻で沖合いはるかまで行くというのは、ある面不気味なものがあるが、真っ暗闇の海上には漁師の仕掛けた網についている赤色灯だけがあちこちに揺れていたり、好天の夜空には満天の星空が広がり、また闇のため海と空が一体となり水平線の感覚がなくなると、船の揺れとともに遠くの漁火が思いがけない上方にあったりして昼間の感覚とはまるで異なり、夜の海ならではの魅力がある。

この夜釣りの難点は、釣りを終え自宅にたどり着くと午前三時過ぎになつていて、道具の後始末や魚の処理も後回しで寝てしまい、起きたときにはつかれて何もしたくないという困った状態になっていることだ。

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魚拓入門

昨年魚拓研究会に入会した。好奇心は人一倍強いが飽きっぽいところがあるので、我ながら長続きするかどうか心配である。

 魚拓はこれまでにも幾度か自己流で作っている。

 それは釣った魚に墨を塗ったくって紙に写し取っただけの、美的感覚とは程遠いいわば記録目的だけの魚拓である。

 釣りに行ってめったに無い大物を釣ると写真だけでは物足りなくなり、突然魚拓に残すことを発作的に思いついて、墨やら魚拓用紙を買いに走るという行き当たりばったりの魚拓なので当然ながら失敗はかなり多い。

 メヌケは釣りたてだと実に鮮やかな朱色をしており、制作意欲を掻き立てさせるものがあるが、絵の具を買ってきて全身朱色に塗り上げ魚拓用紙を押し当てると、そこには不思議な赤いだけの魚状の塊が出現し、さらに飛び出している目玉を自己流で描いたりすると、色が色だけにとてもお魚サンとは思えない不気味さを醸し出し、魚拓を見た人は瞬間『ギョッ』とする。

 函館沖でブリの1mクラスを釣ったときも、これはもう魚拓ものとばかりに魚拓用紙を買いに走り、いざ製作に取り掛かろうとしたところ魚が大きすぎて用紙に入りきらず、また作ってもこれを入れる額縁の大きさや飾る場所を考えると途中放棄せざるを得なくなるなど、さすが大雑把なO型と誰かに言われそうである。

 昨年仕掛作りに必要な針やサルカン、ビーズ玉などを買いに札幌駅近くの大型釣り道具店に行ったとき、そこに展示されていた彩色を施した見事な魚拓に見とれ、思わず衝動的に入会してしまった。

 会員は約70名ほどで毎月1回の例会がある。

 30名位の出席者が開始時間を過ぎると、見学する者と交代で実技に参加する者など、なんとなく始まり時間が過ぎると自然に終わる。

 会長の挨拶とかそんなのは一切ない集まりで、その月その月でテーマだけ決まっているいかにも同好会といった雰囲気の会で、そんなところが気に入っているのでしばらく続きそうである。

 魚拓を作る前の魚のぬめり取りや、ひれの開き方など下処理でやることが沢山あり、また色の強弱のつけ方などいままでいかに自己流で幼稚なやり方をしていたのかがよくわかった。

 困るのは魚拓を作って審査を受けないと正会員になれないことである。

私が魚拓を作るのはあくまでも記録的な大物を上げたときだけで、我が家の居間にトロフィーとして飾りたいという思いが強く、小さな魚の魚拓を作る気はとことん一切無いという変なこだわりがある。

 しかしその気の無いときには釣れ、いざ釣ろうと思うと当たらないという、わが人生のようなお決まりのパターンにはまっている。

 従って、魚拓を作るチャンスが無くなっている。

 或る時の余市沖、同船者の小柄なおじさんが約40cm位のクロゾイを釣り上げしばらくじーっと見ていたが、やおら船頭さんにスケールはないかと言い出した。

 船頭さんは不審そうに何に使うんだと聞いていたが、釣ったソイを測ることがわかってあきれていた。

 船頭さんにとって40cmの大きさはゴミみたいな物かもしれないが、オジサンにとっては生涯最大の大物だったのだろうと思う。

 かように人それぞれに大物の基準は違うのだ。

 先日市民ギャラリーで展示会があり、会員は全員何らかの形で参加せねばならないとのことで、手伝いに行ってきた。

 およそ100点余りの出展があり、どうしてなのか不思議であったが中にはタラバガニなどの魚拓(カニ拓?)まであった。

 精緻を極めたような見事な作品もあったが、あまりにも細かく写実的にきれいに出来すぎていると、ある種の不気味さがつきまとって気味が悪いものだ。

 私が好きなのは同じ魚拓でも、その魚がいかにもうまそうに見える幸せそうなお魚サン(魚から見ればこれ以上の不幸はないが)で、いつになるか分からないが

あまり大きさに拘らず、取り敢えず作ってみようかと思っている。

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日ハムファイターズ

私の趣味というのは、我ながら随分いろんなものに手を出しているなとあきれるほど多々あるが、その中に野球観戦というのがある。

 日本ハムファイターズが今から47年ほど前、駒沢球場(当時東京世田谷にあり、現在駒沢公園になっている)をフランチャイズにし東映フライヤーズ(親会社が映画の東映)と名乗っていたころ、近くに住んでいた中学生の私はその東映フライヤーズの狂信的なファンだった。

 当時球場は現在のように沢山あるわけではなかったので、試合は結構あり夏休みなど毎日のように通った。(外野席の入場料は子供50円で当時ラーメン1杯分の料金)

 試験勉強などで球場に行けないときには、二階の自分の部屋の窓を開けておくと遠くから場内アナウンスのウグイス嬢の声が夜風に乗って途切れ途切れに聞こえてきて、だれがバッターボックスに立っているかがわかり、歓声でヒットかアウトかが想像でき、それはそれでなかなか風情のあったものだ。

 おかげで勉強には集中できず、その頃の成績は惨憺たるものでこれが後々影響することになった。と本人はそう申しております。

 駒沢球場の内野席は背もたれも手すりも何にもついていない木造の粗末な長いベンチがあるだけで、観客も一試合平均3、000人(台風通過直後など天候の悪いときや近鉄などの人気の無い同レベルチームとの対戦では、観客は極端に少なくなり2,000人を割っているような場合もあった)といったところで、観客席にはペンペン草が生えているとよくバカにされていた。

 今でも当時に思いを馳せ目をつぶると、東映唯一の三割バッター毒(ぶす)島、巧打の西園寺、ボールがクラブに吸い付いていくと言われた守備の名手で小柄な石原、快速球で三振の山を築いた投手の土橋(後に日ハム監督もやった)、そして強打者山本八郎が目に浮かんでくる。

 それにしてもスターと名のつく選手は皆無といっていいほどで、逆に相手は稲尾をはじめ中西、大下、豊田、野村、杉浦、山内、米田、梶本などキラ星のごとく、目も眩むようなそうそうたるメンバーがゾロゾロいた。

 私は当時捕手で四番を打っていたファイター山本八郎選手の大ファンであった。

 打率は2割5分~2割8分台位で低かったが、ここぞというときの勝負強さは抜群で、それで四番を打ち人気も高かった。

 あるとき一塁審判のアウトの判定に、怒った山本選手が審判を殴ってしまいかなり長い間出場停止になったことがある。

 当時の監督はキャッチャー出身の岩本という人だったが、ある試合、代打で捕手を使い切ってしまった結果、やむなく監督自身が捕手の守備について試合は続けられた。

 サインは出来ないのでキャッチャーミットを構え、大声で投手にここ、ここと指示した。一方投手は緊張か、投げにくかったのか四球を連発して大敗した。

 岩本監督は腹の突き出た小太りの体型でそれほど若くもなかった、当然選手登録しているはずも無く、今から考えると試合に出られたことが不思議でならない。それにしても前代未聞の出来事であったが観客は試合の結果は度外視し(もともと弱小球団で負けには慣れっこ)、一球ごとにやんやの大喝采で大喜びした。

 東京といえ当時の駒沢はド田舎と言ってもいいくらいの辺鄙な場所にあり,またファンの野次もひどいものでガラの悪さは有名であった。

 もっとも、相手を野次り倒さなければ勝てないほど他チームとは力の差があったので、止むを得ない面はあったのだ。

野次の被害者は当時の南海ホークスの野村選手で、今でこそID野球の神様みたいに言われているが、選手時代は顔つきがいかにも愚鈍そうに見え、徹底的にバカにされ野次の集中砲火を浴びた。

 しかし逆にホームランをボカスカ打ち、実力で野次を黙らせたのは流石であった。

 だがファンの悪名を決定的にしたのは次の事件が勃発してからである。

 当時駒沢球場にはナイター設備が無く、ある試合で負け試合から猛反撃しもう一押しで逆転といった場面で、唐突に日没試合(サスペンデッドゲーム)となり敗戦となった。

 怒った観客は試合の続行を求めて、暗ければ明るくしてやるとばかりに、何と新聞紙を集めて火をつけ木製のベンチは燃え出した。それがあっちでもこっちでも始まり収拾がつかなくなってしまった。

 翌日の朝刊にかなり大きく写真入で報じられ、この事件が原因だったかは記憶していないが、翌年ナイター設備が出来たように思う。

 スター選手不在の中、安打製造機といわれた後の大打者張本選手が入団してきたのはその頃だ。

 張本は山本八の波商の後輩に当たり、開幕戦からレギュラーで当時から打球音が金属性の鋭いものだったし球足も速かった。見る見るうちに、四番は張本に取って代わられた。

 そして監督が巨人からキザの水原がやって来、大好きな岩本監督は近鉄に移った。しかも大ファンの山本八郎もスマート野球が身上の水原野球の構想外だったと見え、数年後同じ近鉄にトレードされてしまい同時に私もファンとして、近鉄に移籍してしまった。

 その間、懐かしの駒沢球場は取り壊されチームは後楽園へ、私は住まいを東京から札幌に移り住んでいる。

 それから40数年がたち我が家の近くに札幌ドームが出来、日ハムのフランチャイズが決まったのを機会に、日ハムに出戻り応援することにし、駒沢球場とは天と地ほど違う立派な札幌ドームにせっせと通いつめた。

 あの当時粗末というか劣悪といおうか、すさまじいボロ設備、施設に耐え、また僅かな観客のささやかな応援と、強烈無比の野次の援護射撃で頑張った東映フライヤ-ズの面々がいたから、今の日ハムがあるのだろうと思う。

 それにしてもファンの野次も昔とは大きく様変わりしている。

 決定的に異なるのは、その昔の野次というのは徹頭徹尾、相手の欠点をボロクソに攻めたてたものだが、今の野次は逆に我が贔屓チーム選手に対する叱咤激励であり、相手に対する悪口雑言というのはほとんど聞かれない。

 これはイジメ対策などの学校教育の賜物か、文化がそれだけ向上しマナーなどレベルアップしているせいなのだろうか。

 それとも人っ子の良い札幌だけの現象で、本州他球場とは異なるのかも知れない。

 ある試合で外人投手が初回、2回と続けて打ち込まれ大量失点を相手に献上した、それでもヒルマン監督はその投手に続投を命じた。

 私の隣にいたジイさんが痺れを切らして、投手交代させろーと大声で野次を飛ばした。

 ところが目の前にいたユニフォーム姿の小学生の一団はその野次に対して、すかさず声をそろえてピッチャーがんばれーのエールを送り、意地になったジイさんとしばらく交互に変えろー、ガンバレーのやり取りが続いた。

 個人的にはピッチャー交代すべきだったと思うが、それとは別にだめなものは切り捨てるのではなく、頑張らせるという小学生チームの指導者の方針が良く浸透しているんだろうなぁ、と自分の子供の頃では考えられない発想に、驚き感心したのだった。

 近鉄の消滅、東映から日ハム、駒沢球場と札幌ドームという不思議なめぐり合いを感じながら、当時とは比較にならないほど品のいいファンの、夢のような大観衆と大応援に感動しながら、プロ野球を通して時代の変遷を実感している日々である。

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魚づくし

 一頃、『サカナを食べ~ると頭が良くなるぅ』というような歌が流行ったことがある。

これは魚離れに対するスーパーの魚拡販のCMソングなのだそうであり、それほどまでに日本人は魚を食べなくなったらしい。

私はこの世から魚が消えて無くなったら生きて行けない、釣りはもちろんのこと毎日朝昼晩、魚OKのサカナ大好き人間なのだ。

従って頭はすごぉく良くなっている。ただし本人以外の人が見ると、どうもそうは見えず逆のようであるらしいが…。

それはともかく、魚ほど鮮度が問題になる食べ物は他に無いだろうと思う。

函館なんかでは、ちょっとしたスーパーの魚売り場にはエラをぴくぴくさせてまだ生きている魚が売られているし、イカなんかは活きているイカとして売られている。(実際には絶命しているが、イカの細胞が生きていて身を叩くとシュワシュワと身の表面が変化する)。

これに比べ札幌で売られている魚のほとんどは、海から上がってからどんなに早くても2、3日は経っている。

従って刺身でコリコリと言う食感は、札幌の魚屋からでは絶対に味わえない。

これは全て流通経路に問題があり、生産者から消費者に魚が渡るまでに数段階を要するため、時間がかかり価格も当然高くなる。

結局損するのは漁師と消費者で、大昔から変わらないこの流通機構どうにかならんのかと思うが、如何ともし難いらしい。

従って美味い魚を食べたければ、釣りに行かざるを得ないのだ。

釣りキチの父親を持った我が家の子供たちは、小さい頃から釣りたての美味い刺身を普通に食べてきたせいで、今ではすっかり舌が肥えてしまい、家の外では刺身が食べれなくなってしまっている。

味というものはその人の好みであるが、私の美味い魚(料理)とは全て自分で釣ったオサカナさん達である、と言うよりも食べて美味い魚以外は釣らないし、不味い魚が釣れた場合は全てリリースしてしまうのだ。

私のいちばん好きなサカナはマゾイ(キツネメバル)だ。姿、形、色合いともいかにも美味そうであり、季節を問わず脂の乗りも申し分無く、しかも釣り味も抜群で私のランキングでは圧倒的に輝けベストテンの第1位にランクされる。

名前の頭にマ(真)が付くだけで、真人間、真っ正直などを連想させ、いかにもソイの中のソイ、本物のソイと思わせるではないか。

余談だが学名のキツネメバルというのは、体色や体型から云うとキツネよりタヌキのほうがピッタリ似合い、釣り人の中には笑ってしまうが勝手にタヌキメバルと呼ぶ人もいる。

食べ方としては何と言っても刺身とか、にぎりが良く、アラはミソ味でも塩味でもとにかく鍋が美味いし、また醤油と味醂、砂糖で煮つけても美味い。ここで肝心なのは肝臓は捨てずに一緒に煮ることで良い脂が出て一層美味くなる。また皮や胃袋を捨てる人がいるが、胃袋は包丁できれいにしごいてさばき一緒に煮ると、プリプリして柔らか目のホルモンといった食感でとても美味いものだ。

 

クロゾイ(ナガラゾイ)でも悪くないが、マゾイと比べると脂の乗り具合や食感でやはり一段落ちる。しかも煮付ると身が固くなりよろしくない。

その点、煮付けではクロゾイよりガヤのほうが美味い。ガヤ(群れでガヤガヤしているから付いたらしい)などという不名誉な名前をつけられているが、正式にはエゾメバルで見かけが悪い分相当軽んじられ損しているサカナである。

またガヤの刺身にすりつぶした肝臓を醤油でとき、一緒に付けて食べると一層うまくなる。

 

美味いサカナの基準は、やはり刺身にしてみてどうかだろうと思う。

 

普段刺身にしない(出来ない)が、釣ったばかりだとほとんどの魚は刺身で食べられる。

その代表選手がキンキの刺身で1番美味いと思うが、いかんせん釣りとしては200m以上の深海魚でアタリがまったくわからず、電動リールで上げてみてはじめて付いているかどうかが分かるという釣りなので、面白くないことこの上ない釣りなのだ。

 

ソーハチも一般的には、干すか煮るか揚げるかして食べるカレイだが、意外と刺身は甘味があり、しかも歯ごたえもあって美味いものだ。

ソーハチは魚体についているヌメリの臭いがきつい魚だが、刺身にすると一 切臭いはない。

マガレイも刺身にできる、特にでかい物ほど美味く歯ごたえと味は一種独特のもので、カレイの中では異質の味わいだ。

ババカレイは名前の通り、ぬめりが気味悪いほどたっぷりついたババッチイ カレイで、煮魚(特に縁側部分のトロッとした部分が最高)として有名だが意外と刺身がいける、調理して一日置くと切り口から脂が流れ出して、旨味が消えてしまうので刺身にするならその日の内がベターである。

カレイでは何といっても幻の魚マツカワ(通称タカノハ)の刺身が最高で、特筆すべきは縁側の刺身である。ヒラメの縁側も有名だが、ヒラメよりはるかに肉厚でたっぷりと量もあり味わいも濃厚である。またとても魚とは思えないほど歯ごたえもありカレイのキングと言える。

難点は幻の魚というだけあって、なかなか手に入らないことである。しかし近年養殖とか放流されているので出会う機会が多くなるかもしれない。

ちなみに磯釣りでも、船釣りでも釣れたら奇跡に近い魚である。

釣り魚で1番ポピュラーなのがアブラコだろう。北海道中どこでも釣れる。

しかし一般に通称アブラコと言っているが、正式にはアイナメとウサギアイナメの2種類に分かれる。他にも砂アブラコ(スジアイナメ)とかハゴトコなんかがいるがこれらは論外。

太平洋で見ると噴火湾から静内あたりぐらいまでがアイナメが釣れ、静内、浦河あたりから道東はウサギアイナメが圧倒的に多い。見た目、ほとんど同じに見えるので混同している人は多いが、我々はアイナメをアブ、ウサギアイナメを単にウサギと呼んで完全に区分している。

そして食べて美味いのはアブであり、比較の上でウサギは数段落ちるというより、釣れたらよほどの大物で無い限りリリースしてしまう。

日本海ではウサギを釣った記憶は無い。

また太平洋と日本海のアブとでは時期にもよるが、日本海側のアブは虫が付いている確率が高く、また脂の乗りも太平洋側に比べて落ちるように思う。

アブは10月が産卵時期で、食べて美味いのはその前の7~9月頃だ。

刺身は淡白であるのでワサビ醤油のほか、ポン酢やゆるく溶いた酢味噌にキムチの素をいれたものを付けると美味いものだし、下ろしたものを昆布に挟んで1日くらい置いて昆布締めにし刺身や握りにすると、ヒラメなんかよりずっと美味いものになる。

魚はアブとウサギのように姿形が似ていると、別種のものであっても混同してひと括りで呼んだりして取り扱う場合が多い。

 

メヌキもコージンメヌキ(本メヌキ)とバラメヌキの2種類いるが、単にメヌキと呼んでいるケースが多い。

本メヌキは大体1000mクラスの深海に住み、バラメヌキはそれより浅場の200~500mに生息する。 

姿形もかなり異なり、色彩も同じ赤系であるが色調が相当違う。

もちろん味も別物で本メヌキは脂が強く、魚体も大きな物になると70㎝クラスになる。

バラメヌキはその名前通りのきれいな明るい赤い薔薇色をしていて、味も上品なあっさり系で魚体も4~50㎝がアベレージサイズだ。

いずれも深海魚で、釣りとしてはアタリも引きこみも弱く釣り味としては面白くないが、波間に突然鮮明な赤いでかい魚体が二つも三つも次々と浮き上がると、その度にドキッとし嬉しさが込み上げてくる。

バラメヌキは恵山沖、松前沖とも船で2~3時間とわりと近いが、本メヌキを

釣りに椴法華港から出船したときは、船足の遅い船だったせいもあって釣り場まで片道7時間もかかりうんざりした。その時はでかい本メヌキが全員に当ったが、二度と乗る気は起こらない。

似たような魚を大雑把に一つの名前で呼ぶのに目くじらを立てる気はないが、どうしても許せないものがある。

それはブリ、若しくはブリの幼魚であるフクラギを、ヒラマサと偽称して高く売りつけている場合があることだ。

ブリは本州では出世魚として、成長するにつれワカシ⇒イナダ⇒ワラサ⇒ハマチ⇒ブリと呼び名が厳然と変わる。

それに引き換え北海道ではフクラギ⇒ブリくらいで、たまにハマチと呼ぶことがあるくらいで極めておおらか(いいかげん)である。

従って幼魚のフクラギが少し大きくなるだけで、北海道ではたちまち一気にブリに大出世してしまうのだ。会社組織で言えば新入社員が2~3年で社長になるようなものだ。

このフクラギ、ブリを北海道では生息していないヒラマサ(本州で希少価値もあって高級魚として有名)と称して販売している場合がある。

私自身ヒラマサは写真とテレビでしか見たことは無く、食べたことも無い。

酷似しているブリとヒラマサとどう違うと言われても、説明できないが(そこが業者の付け目なのだろう)、体長1mのブリを函館沖で釣り上げているのでブリの形と味はわかる。

多分これは明らかに詐欺行為で、肉や野菜の産地偽造なんかより相当悪質である。

今のところ問題にならないのは、生魚だけに証拠品がすぐに無くなるのと、立証できる人がいないからだと思う。

そういった意味で魚の呼び名ほどいい加減な物はない。なにしろ学名とは別の名前でしかもその土地その土地で呼び名が異なるのだ。

ヤナギノマイを積丹方面では、マイを訛ってモイあるいはモエと略したものが呼び名になっている。

函館の魚屋でこれを黄ゾイと表示して売っていた。確かにヤナギノマイはソイと同じフサカサゴ科の仲間であり、体色が黄色であるのでなるほどと思ったものだ。

しかしこうした状況に、欲と利害関係が絡むと前述したヒラマサのごとく、怪しげなことになって行く。昔からおなじみの銀ダラは、深海魚の本当の名前にするように行政指導されたのは記憶に新しいところである。

なかでも顕著なのが、鮭類である。鮭の3年魚(普通回帰する鮭は4年魚)で脂の乗りが異常に高いということで、一匹10万円以上もする鮭児という鮭がいる。

以前にその切り身を貰って食したが、どう見てもどう味わってもサクラマスでしかなかった。

他に本物の鮭児がいるのか、貰った鮭児がマスだったというだけなのか、真相はわからない。誰かDNA鑑定でもして鮭児の所在をはっきりさせてほしいと思う。

『そんなに疑うなら1本くれてやるから確かめれという人いないかなぁ。』

このように鮭はメジカだのなんだのと、あの手この手で勝手に名前を考え出し、付加価値をつけているのは営業努力なのか、はたまた誤魔化しなのか何とも言えない面がある。

鮭と言わず魚は概ね、獲れる場所と時期(旬)で美味いか不味いかが決まる。

一般的に鮭は北方から南下するほど脂が抜け不味くなる。銀毛と少しくらいのブナなら見た目ぐらいの違いでしかない。

渡島あたりの鮭は、例え銀毛であってもかなり脂が抜け、その身は木材の切れっぱしを食べているように味気なくなっている。

料理屋でホッケの刺身を食べたら美味かったという話を聞いた。

私も昔にホッケを刺身にして食べたことがあるが、それほど美味いものではなかった。それより、その話を漁師にしたところホッケは北海道中どこで獲れようが生きたままだろうが、虫の付いている確率は高いから絶対に止めたほうがいいといわれ、以来食べたことは無い。

寄生虫によっては人の胃壁に食いついて頭がもぐりこみ、激しい痛みを伴い退治するのが相当難しいらしい。治療方法としては薬物では処置できず、口から内視鏡を入れて映像を見ながら寄生虫をつまみ出す、という大変なことになる。

ムネオ風に云うと、『それはですネ、非常にキケンが危ないと、こう思うんですネ、それを堂々と売り物にしていると言うのはですネ、いかがなものかと…』。

秋が深まってくるとカジカを食べたくなる。

カジカは船釣りより、むしろ磯釣りのほうが釣れる確率は高い、秋の日高海岸でひとり竿を出してのんびりカジカ釣りをするのも良いものだが、釣り場まで遠すぎるのが難点である。

カジカは定番のミソ汁の他、三枚に下ろしたものと肝臓に酒を振りかけて蒸し、

骨を取り除き身をほぐす。

蒸した肝臓に味噌を加えてすり下ろし、ほぐしたカジカの身に絡めた『とも合え』が美味い。

また醤油、砂糖、味醂で煮付けても美味いものだ。

また秋から冬ともなればマダラが美味くなる。

マダラ釣りは200m前後の深場で、シャクリを振って釣るだけに相当くたびれる釣りである。

しかし引きも手応えも充分あり、かかれば大物かどうかはすぐ分かる。

タチが入ってバンバンの腹をしたメートル級のでかいマダラが、海面を割ってドーンと浮かび上がると壮快そのもので疲れも吹き飛ぶ。

この時期のマダラの刺身にはポン酢がいちばん合うし、サンペイ汁やから揚げ、ムニエルなど色々楽しめるが、Ⅰメートル前後のものを下ろすのは背骨などとても魚の骨とは思えない位の太さがあって一苦労する。

なおタチはどんな調理をするにしても、塩でよくもんでヌメリを洗い落とさなければ、生臭さが残って不味くなるので注意が必要である。

サクラマスは1、2月に太平洋で釣り、さらに大きくなる4,5月に日本海で釣る。 

  太平洋では数は上がるものの大型が少なく、日本海の3キロを超える通称イタマスは簡単には釣れない。

しかし脂がのったイタマスは、チャンチャン焼きや、味噌鍋も良いがシンプルに塩焼きにするのがいちばん美味い。

魚は冷凍すると不味くなるが、イタマスは塩をふって切り身にし、冷凍保存しても脂がのっているせいか味はそれほど変わらない。       

    

こうしてあぁだこーだと色々書いてみると、読んだ人から釣りが目的なのか美味い魚がほしいのかどっちだと聞かれそうだが、それは札束がいいか、金塊がいいかと聞かれるようなものでどっちもすご~くほしいのだ。

釣りは大好きだが魚は一切食べないと言う人は結構いるし、また釣りに行ってきたら、道具や服の始末から魚の処理まで一切合切奥さんにやってもらうという人もいる。

美味い魚を釣ってきて自分で下ろし、刺身、握り、鍋、干す、煮る、焼く、すり身、揚げる等、好きなように調理して食べるまでが一貫した私の釣りなのであり、食欲が有り続ける限り釣りも続くのだろうと思う。

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奥尻島悲歌

奥尻島は南西沖地震抜きでは語れないが、震災前の奥尻は札幌の釣り人からみると、まさに夢の島憧れの島であった。

釣り人のとんでもない錯覚に、地元から遠くへ行けば行くほど釣れる、というのがある。

実際には対象魚と時期と場所とウデの問題なのであるが、なぜか遠くへ遠征したほうがより大物が釣れそうに思うのだ。

それは未知への期待感なのか、単に他所の家のものは良く見える、式なのかはわからない。

また釣り情報と言うのは当たり前であるが釣れることしか掲載していない。

長い間の経験上断言できるが、雑誌にしろ新聞にしろ人の話にしろ、実際はその話の半分から3分のⅠ位なのが実態なのである。

ご多分に漏れず私も釣り雑誌などを見て、あそこが良いここが釣れると出ていたり聞いたりすると、矢も楯もたまらずどこへでも出かけて行って、結局北海道中を釣り歩いてしまっている。

そして、その度にこんなはずじゃないと何度思ったことか。

そんな中で、奥尻だけは長い間憧れの場所だったにもかかわらず、札幌から遠く、さらに船に乗らなければならないということがネック(フェリー代が高額なのと時化たら勤務を休むことになる)になっていて、行ったことが無かった。

あるとき同僚でビギナーのO氏に、釣り雑誌で知り得た奥尻の釣り情報をやや自分流にアレンジして話したところ、すっかりその気になったO氏が計画から全ての手配までやり、5月のゴールデンウイークに、もう1人の仲間を誘って3人で遠征することになった。

何しろつり雑誌に出ている釣り情報は、全島どこで釣ってもソイ、アブラコ、クロガシラ、カジカにホッケの大物がぞろぞろ釣れると写真入で出ているのだ。

2泊3日の釣行は天候悪く5月だというのに肌寒く、また持って行った地図と実際のポイントが一致せず、それでも全島どこでもバンバン釣れるということを信じて、いいかげんにあちこちで竿を出すもののさっぱり釣れず、すっかり打ちのめされた思いで帰りのフェリー乗り場にたどり着いた。

時間があったので近くの漁協を覗くと、そこには確かに大型魚がハッポースチロールの箱に詰められ所狭しと並べられていた。

折角奥尻まで来て手ぶらで帰るのもナニであるので、その中からシマゾイとクロガシラを箱ごと買って持ち帰ったが、体長4~50㎝もあるクロガシラは身がブヨブヨで、刺身はもちろん煮ても焼いても食えた代物ではなく、5枚とも全て生ゴミとして消えた。

それから数年が経ち、人事異動で函館支店に転勤となる。

函館支店のテリトリーには、奥尻島も含まれていて有力ユーザーも数社ある。

転任挨拶で奥尻をつぶさに見て回ったが、前任者はほとんど島まではまわっていなかったようで珍しがられた。(有力ユーザーのほとんどは函館に本社があり、わざわざ奥尻まで行かなくともそこで用は足りる)

釣りの宝庫を目前にすると、公と私はしっかり握手し抱き合い、そしてゴチャ混ぜになった。

従って奥尻島は月1回平均で表敬訪問の対象となり、スケジュールに組み込まれることになってしまった。

同行の営業マンK君の車のトランクに釣り竿をはじめ道具一式を忍ばせ、仕事を終えるとK君を宿に残し、一人であちこち釣りまわるのだ。

そこで分かったのは、ホッケ、アブラコ、カジカはほぼどこでも釣れ、ソイ類は島の外側の岩場で、しかも人が乗ってやっとといった飛び岩に、船で渡してもらわないと大物は来ない。

クロガシラは港内の砂地に砂利混じりと行ったところが良く釣れる。

しかしながらクロガシラだけは、どんなにデカくても身が柔くて美味くない。

多分冬にでもならなければ身が締らないのかもしれない。

平成5年7月12日、その日の仕事を終え同僚と3人で函館市内の焼肉屋で遅い夕食をしていたとき、突然大きな揺れが襲いかなり長い間揺れていた。

自宅のマンションに帰ってギョッとなった。TVは横向き、整理タンスの引出しは開きっぱなし、2重窓の内側の引き戸は開かれ、一目見たとたん泥棒に入られたと瞬間思った。

少し落ち着いて良く見ると、それは全て地震の揺れのせいによるものであった。

TVを点けると、北海道地図が映し出され渡島半島を中心に海岸線が赤線で点滅し、津波警報がいつまでも出されていた。

翌朝TVを見ると、ヘリからの映像が映し出され奥尻が燃えていた。

時間が経つほどに奥尻や檜山沿岸が壊滅的な打撃を受けたということが判明してきた。

震災から一週間後、取り扱い製品である油圧ショベル、タイヤショベルに災害救援車と書き込んだ2台の新車を持って営業課長などと奥尻港に降り立った。

奥尻島を半周してみる。青苗は震災前、家が密集して建てられていたので道路から港や海が見えなかったが、その家が1軒残らず何も残っておらず、ただブリキの屋根だけが丸まってあちこちに落ちていると言った具合で、街がひとつ丸ごと消え、港が見渡せるようになっていた。

それは稲穂地区でも同じで、これほどまでに何も残らないのかと思うほど、消滅していた。

一方では海岸に建っていながら、ほとんど損害の無い家も結構あって、津波が複雑に押し寄せたことが分かる。

この震災で大手ユーザーの社長親子が三代にわたって亡くなられた。

震災時、奥尻港の近くの飲み屋にいた社長は地震と同時に港方向から発生した凄まじい崩落の音を聞き、港の飯場に寝泊りしている父親の会長が心配になり駆けつけた所、押し寄せてきた津波に飲み込まれた。会長はすでに崩落の下敷きになっていた。

(山崩れで押しつぶされ飯場の中に閉じ込められた作業員の何人かは、押し寄せた津波で飯場の屋根が一瞬持ち上がり、できた隙間から逃げ出し九死に一生を得た人もいた)

同じ頃、社長の奥さんは地震発生と同時に、小学生の娘と2人で車に乗って避難する途中、津波に車ごとさらわれ奥さんだけ助かった。

同じユーザーの重機運転手は、奥さんと逃げる途中津波に襲われ夢中で一緒に電信柱にしがみついたが、波に洗われ力尽きて奥さんと繋いでいた手が外れ、奥さんだけが波間に消えて行った、と淡々と話してくれた。

この南西沖地震にたいし日本全国から凄まじい数の救援物資が送られてきたが、小学校の校舎の長い廊下に端から端までダンボールの山がうずたかく積まれていた。

聞くとこれは一部でまだ収容しきれない救援物資があるとのこと。

これだけ大量の物資を誰が開けて、仕分けし、どのような手順基準で罹災者に渡すのか、保管するだけでも手一杯だと悲鳴を上げていた。

また、救援物資の大半は古着であり中には洗濯もしていない物もあるとのこと。

もちろん中にはわざわざ新品を買ってって送ってくれた人のも当然ある。

いずれも善意から送られたものに変わりはないが、皆が猫の手も借りたいくらい忙しい中、調べるだけでも大変な作業である。

しかも罹災者には国から手厚い被害救援物資も届けられている。

これらの救援物資は結局、後日海外のそれらを必要としている国に送られたらしい。

こういうふうに書くと、送るのが悪いみたいに聞こえてしまうが、災害被害に対し時代に即した善意とは、現金とかボランテァ活動以外になにがあるのだろうかと、つい思ってしまうのである。

かって青苗港はクロガシラとホッケを中心とした釣りの最良のポイントが数多くあった港であった。

特にクロガシラは一定のポイントにごっそり住みついているらしく、そこに投げ込めば必ずと言って良いほど良型のクロガシラが何枚も上がった。

災害復旧工事で、港内の沈殿物を油圧ショベルで掬い上げる工事が行われたが、バケットの中には色々な物に混じって遺体の一部が少なからず入ってくる、と言う話を聞いた。

今では奥尻は完全に復旧し震災も過去のものになりつつあり、時期には相当数の釣り人が島を訪れているらしいが、震災前の奥尻をいくらかでも知っていて、また知り合いが波間に消えて行った海に向かって竿を出すという気にはとてもなれない。

札幌に在住している現在、奥尻は再び遠い島になってしまった。

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